公益財団法人 白山麓僻村塾

活動の記録

2007年度[第16期]
2007年4月30日/白峰 望岳苑
本の世界〜

村上春樹について

湯川豊
湯川豊/1938年、新潟県に生まれる。(財)白山麓僻村塾評議員長。東海大学文学部教授。64年文藝春秋に入社し、「文学界」編集長、常務取締役を経て2003年退社。その間、敏腕編集者として数々の作家を育て上げた。優れたエッセイストとしても知られ、著書に『イワナの夏』がある。現在、毎日新聞書評を担当中。
 安田登の『ワキから見る能世界』を読んだ。能では主人公をシテ、脇役をワキという。だが、ワキはただの脇役ではない。(夢幻)能において、シテは怨霊(異界の存在)であり、ワキはそれを呼び寄せ、私たちに見せるという重要な役割を担っている。このワキの存在を考えたとき、思い浮かぶのが村上春樹だ。
  村上の小説には、必ずといっていいほど「異界」が出現する。近年の代表作『海辺のカフカ』もそうだ。村上は異界に起こっている物語を、見事に現実の中に溶け込ませて小説を書く。それがどんなに非日常的な設定であっても、村上の作る物語に引っ張られて、全く気にならない。 村上が「異界」を書くのは、人間の奥の奥にある「底なしの闇」に到達したいからだ。闇の中には「人間の存在を問うドラマ(=霊魂のドラマ)」がある。それを捕まえ、言葉にするのが本当の小説家の役割だ、そう彼は思っている。そのために選んだテーマが異界であるに過ぎない。 多くの人が非日常的な村上の作品に共鳴する。それは「物語というものが持つ力」であると同時に、極北の先住民たちの神話に通じるような「生きていくための物語」が作品の中にあるからではないか。もしかすると村上春樹という作家の中に、21世紀の「新たな霊魂のドラマ」を読むことができるかもしれない。